| 応仁の乱 |
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| 永享の乱は将軍継嗣問題が絡み将軍と鎌倉公方の間で起こった争いであるが、室町将軍義教は将軍の力を天下に誇示するために公方を滅ぼした。 そのことが関東では後々問題となり、関東管領上杉家は室町幕府派とのレッテルを貼られることになる。 そして、将軍家お膝元である京都でも政争を引き起こすことになる。 永享の乱の2年後義教は嘉吉の乱により、赤松満祐に義教が殺されてしまった。 嘉吉の乱は幕府が義教の次の将軍として子の義勝を立て、細川氏・山名氏が幕府方となって活躍し間もなく静まり、赤松満祐は滅ぼされたが、このとき山名宗全(持豊、新田義重の子義範の末裔で義範は高崎市山名町に本領があり山名氏を名乗った。)の戦功が最も大きく赤松の領地を幕府よりもらい急速に力を強めた。 しかし、同じ功者であった細川氏はそれほどに評価を受けられず、山名氏の勢力増大を忌々しく思った結果山名氏に対し事あるごとに対抗しやがて相争うことになった。 この2家の争いが中心となり、その他に幕府の将軍継嗣問題や斯波氏・畠山氏の相続問題までが絡み、京都を中心として近畿の有力武将達が2つに別れ、応仁元年(1467年)応仁の乱へと突入していった。 細川勝元を大将とする東軍16万人と山名宗全を大将とする西軍11万人は京都の市中で文明9年(1477年)まで11年間も戦い、この戦乱で御所・内裏をはじめ、公家や武将の邸宅、寺社仏閣まで失い、京都の端から端までが見渡せるくらいの焼け野原となった。 応仁の乱は山名宗全と細川勝元が相次いでなくなったことから下火になり、やがて全国から集まった武将達が領国へ帰ることにより終わりとなったが、応仁の乱の最中に将軍となった義勝の弟義政は世の乱れを気にせず、京都東山の銀閣に代表される土木工事を盛んに行い、贅沢・風雅にふけり政治を省みることが無かったため全国の武将達は幕府を当てにすることができず、領国へ帰った武将達がそれぞれ領土を守り、または広げるために勝手に争う戦国の世の中へとなっていった。 このことにより日本の戦国時代は応仁の乱より始まったとされるのである。 しかし、それはあくまで幕府の中心地であった京都での認識であり、すでに関東では永享の乱以降、鎌倉公方と関東管領上杉家がそれぞれ関東を2分して争っていたので、関東は全国に先駆けて30年あまりも早く戦国時代に突入していたと言えるのである。 |