| Photo10 簗瀬城から見た碓氷川 |
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| 中央の5階建ての建物の右に写っているのが中橋という碓氷川に掛かる橋である。 現在では川自体は見ることが困難であるが、その手前の建築物は川よりも10m程度は上に築かれているので、実際の簗瀬城の高さが想像できると思う。 川と簗瀬城が建っている崖の間には道があり、少し平らとなっているが、そこに現在では家が建っている。 しかし、簗瀬城は実際には崖端城といって差し支えない。 |
| Photo11 簗瀬城遠望(磯部城址方面) |
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| 写真中央に山が見えているが、この山の右端に磯部城が築かれている。 因みに磯部城のある山の左よりには文殊寺城(むじゅうじじょう)と呼ばれる砦跡もある。 磯部城は鎌倉時代、佐々木源氏の盛綱入道西倉の居城といわれているが、磯部城自体は鎌倉期の綱ではなく列記とした戦国の城であることから、佐々木盛綱は近くに住んではいたが実際に城が築かれたのは室町の南北朝の頃ではないかと創造される。 それは碓氷郡はもともと源氏の里見氏が支配していた土地であり、ここに同族の佐々木盛綱が居住していたのであることからも判るが、それだけにこの地方を襲った南北朝のうねりが大きかったに違いない。 その頃室町幕府に備えて最初の城が築かれたとしても不思議は無い。 時代は下がって、里見氏が衰退し上杉氏の支配力が高まり、安中氏がここを支配するようになったが、安中氏は武田氏との戦いに備えて磯部城を新たに築きなおし、文殊寺城と別城一郭の城として使用することにしたのではないだろうか。 実際武田氏の上州侵攻が本格的になってすぐより、この辺りでは何度も激戦が展開されているらしい。 その後、西上野が武田氏に支配されるようになって磯部城は再築城され、文殊寺城が烽火台に使用されるなどで武田氏に使用された可能性が高いが、簗瀬城はそのまま廃城とされ、二度と復活することは無かったのである。 |